ゆらゆら帝国でお昼寝中…

〜中身は空洞です〜

【第十夜】干支紀年法ってなんだ?

「干支暦」って… よくわかんないけど… 
いいや。よくわかんなくても占いはできるしさ。。。

十の干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と、十二の支を組み合わせたもんだよ…
と、自分に言い聞かせてきたんですけど…
よくわかんないものを覚えるのはなんだかしゃくなんですよね…(笑)

というわけで、なんとかここまで来たぞ。

***

中国古代の暦はこんな風に変化してきました。

○ 歳星紀年法(戦国時代 BC402-BC221あたりより)木星(歳星)が十二次のどこにあるか?
例)「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星が天球上の「星紀」という場所に存在する。

○ 太歳紀年法
木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を境に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定。
この線は、寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。

木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。

なーるーほーどー…
しかしまぁその時代に、木星の公転周期がわかってたってことが驚きです。すごい。

で、次にいくわけです。

○ 干支紀年法

後漢建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された。
これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。
この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。

へえーーー。これは異説はないのかな?
干支暦の始まりは「甲子年甲子月甲子日甲子時」で、冬至の日に始まった… の???
えーと。「甲子」ってのは、60干支の一番最初にくるんです。

※ かの有名な「甲子園」は大正13年=甲子(きのえね)の年に完成したから「甲子園」らしいですよ。ホント???


で… この干支を日々の暦にも使うし、毎日の時刻にも使うし、方角にも使うもんだから、なんだか混乱するんですよ。
さらに、十二支ってのは現在のわれわれにとってはたいてい「年賀状に描く絵の動物」のイメージしかない…
このあたりがますます干支がわけわかんなく感じるひとつの要因ではなかろうかと思っております。

でもさ、もともとは動物が配置されてたわけじゃなくて、字が難しすぎるから、一般人にもわかりやすいようにたまたま動物の名前を当てた、ってことらしいんですよね。

神様がお正月に動物たちを呼びつけて、早く来たもの順に一年ずつそれぞれやろう!と言った、って話も好きですけどね♪
ずる賢いネズミは、堅実な牛の背中にこっそり乗って一番をゲットした。
で、猫には「1月2日に集まれっていう話だよ」とか嘘ついたから猫年はないんだ、とかさ。そういう話ですよね? たしか。。。

ふう。ようやく十回分クリアしましたっ。
ようやく十干とか十二支のこと書けるような気がします。。。